忘却予防ライン

海馬がDB化されるまで、人は何かを書かねばと強いられているようです

ここ2ヶ月くらいの出来事

ご無沙汰しております。

気づけば夏が終わっていました。1年における最もホットで弾けるべき季節を、エンジニアやデザイナーの皆々様方と一緒にオフィスで溌剌と仕事ができたのは良い思い出になりました。
誰でもいいから、私を3ヶ月前に戻してくれないかな?仕事無しで。

さて、とはいえ、色々と山あり谷あり変化ありの夏でした。ざっと何をして、自分が今どうなっているのか、備忘録的に書いていきましょう。

新サービスをリリースしました

サービス名は伏せますが、テキストコンテンツを取り扱うものです。仕組み自体は旧来のもので真新しいのは一部だけなのですが、既存の機能と組み合わせると色々と世界が広がるようです。

わたくしコードを書く能力はからきしの被エンジニアですので、主に担当していたのはディレクションです。

規模が大きめのサービスをゼロからリリースまで担当したのは、現在の会社に転職して初めてだったので、色々と良い勉強になりました。

成功か失敗かは、時が経てば見えてくると思いますが、良くも悪くも大きな反響を集められたのは良かったです。

開発寄りのディレクターになりました

あれ、いつのまに?という感じで。もともと、営業・コンテンツ寄りのディレクターで、ディレクターと胸を晴って言えるほどのことはしていなかったのですが、今回のサービスから開発側にがっつりコミットしました。

どっちが良いのかどうかは分かりませんが、要請されるポジションに応じて、求められるスキルも大分変わってきますので、慣れるまでは結構疲れました。表には見せないように去勢はってましたけど、理解出来ない単語が飛び交うとコミュニケーションが取れなくなるので、その齟齬を埋めるために夜な夜な勉強していたのは秘密です。今いいました。

プログラムを勉強しはじめました

エンジニアになりたいというわけではないです。

技術があるのはいいことですが、自分がやりたいことはそこではない、というのは常々意識しています。手段が目的になってはあかんのです。餅は餅屋。

つまり、コミュニケーションコストを減らすためのものです。今回開発にコミットしたことで、大人数のエンジニアが必要なプロジェクトでの伝達ミスが、後でどれだけ大きなしっぺ返しをくらうかということを、何度か体感いたしました。もちろん、それは技術的な仕様が理解出来ていなかったから「だけではなく」、単純なコミュニケーションロスも含まれます。ただ、その穴を埋めるための1つの手段として、理解力を高めることは重要なことだと認識した次第です。

多分、ディレクターっていう職業は、会社もしくは部署によっても役割が大分変わってきて「何が必要とされるスキル」かは、その職場が要請してくるものだと思います。共通として言えるのは「プロジェクトを成功させる為の進行役」でしょう。

自分の中でのひとつの答えとして「全体の理解」は最優先にあげられるので、そこはまずなんとかしないといけないわけです。

とりあえず、XAMPPで開発環境構築して、暇な時間使ってPHPでプログラムを書いています。春くらいまでに、何か作りたいなー。無理だろうなー(棒

エロゲがやりたいです

やりたいなぁ。「カミカゼ☆エクスプローラー!」みたいなの誰か。

引き続き忙しい毎日に

夏休みください。おわり。

Pentium4 3.4Ghz程度

気づいたら2週間、何も書いていなかった。言い訳にもならないのだけど、ただただ忙しかったからだ。忙しくても400字くらい書けと言っていた、昔の自分に土下座して詫びたい。この意志薄弱ぶりは、救いようがないと思う。

自分のCPUは"Pentium4 3.4Ghz"程度のものなのではと、最近気づいた。とにかくマルチタスクに弱い。大きめのタスクが1つ降ってくると、他のタスクに対してリソースを割く気力がじりじりと摩耗していくのを感じる。一方で、シングルタスクであれば、それなりに根を詰めて、それこそ徹夜なり厭わない程度にやれるので、処理能力そのものが劣っているわけではないと信じたい次第ではあるのだけど。

そんなもの頭の整理の仕方が下手くそなだけでござろう、と言われるのもご尤もな話なのだが、そういうレベルの話ではなく、タスクがある一定のキャパシティを超えると、再起動に時間が掛かる感じがわからないだろうか。ガリガリとCPUが悲鳴をあげて、立ち上がるまでにいつも以上の時間を要する現象のように、「さて別の作業に取り掛かろう」と考えようとする途端に、脳みそがフリーズするのである。やめて、それ以上先にはいかないで!とゴーストに囁かれると、これはもう如何ともし難く、次の行動の選択肢は「今日は終わり」「もう少し今の作業の続きを」の2択になるわけだ。ここで後者を選択してしまう辺りが、訓練された社畜のなせる業であるというのは言うまでもない。

個人的にはCorei7ばりのマルチタスクかつ、高性能CPUを目指したい所なのだけど、気軽に積み替えられるようなものではないので、CPUクーラーでも強化して、脳みその冷却効率を高める努力をしていこうと思う次第だ。具体的には(以下略


つまりこれ、言い訳なのよね。

デバイスなりの表現があるだろう、という一般的な話

[iPhone, iPad] RENTHEAD 第1話 -ガラスの靴が履きたくて-(前編): 全編フルボイスのビジュアルノベル
http://www.appbank.net/2012/07/04/iphone-application/435171.php

これはまた面白いものが出た。スマホのノベルゲーは既にオリジナル・移植ともに市場に溢れているが、スマホのUIに適合するという意味において、リーダビリティを追求している試みは新しいのでは。
わざわざ横にディスプレイを傾ける必要もなく、Twitterのタイムラインのような可読性を味わえる。新しいスマホノベルゲームの形なのだと思う。(既に類似作があったらすいません。特に調べてはいないので)

PCのノベルゲーム作法でいうと、立ち絵があって、その下に会話ウインドウがあり読み進めていくもの。もしくは背景をグレー透過にし、上からテキストを被せていくものが大半だが、デバイスが変わればその形を維持するのは不健康だ、というのは真っ当な考え方だと思う。
よくスマホで無理に縦書きを表現する電子書籍アプリがあったりするのだけど、あの狭い画面で縦書きで読ますには無理があると思うし、本と同様の読書体験を求めるというのは、そもそも間違っているのではないか。

狭い画面には狭い画面なりの表現方法があるし、実際スマホアプリの使い勝手はUIが全ての決め手となると言って過言ではないだろう。デザインや動作はもちろんのこと、指の動きまで考えて設計されているアプリを使うと、UI・UXがいかに重要かを強く実感する。本が縦だから縦、というのはさすがに安易過ぎる発想だ。


ただ、その結果生まれたベストなゲームスタイルが「ソーシャルゲーム」なのだと言われると、ぐぅの音も出ないのもまた事実である。作り手やプレイヤーが求めるゲーム性が、必ずしもそのデバイスで再現出来るわけではないという制約のなか、いかにして新しいゲーム体験を提供出来るかという点が、今後のゲーム市場における課題なんじゃないのかな。などということを、ソニーのGaikai買収ニュースを見て思ったのであった。


うまく実現すれば全ての悩みは吹っ飛ぶよね。ただインフラの整備もさることながら、動画サイトのディレクター的には、ストリーム配信のコスト計算をするのは目眩がしそうなので、週明けにでも頭を回したいところです。かしこ。

お前のモラトリアムは何色だ(感想「エトランゼのすべて」)

エトランゼのすべて (星海社FICTIONS)

エトランゼのすべて (星海社FICTIONS)

リアル大学生世代の決断主義

話の内容以上に、著者がこのように軽妙な語り口の作品を綺麗にまとめあげていることに驚いた。なぜって、自分が最後に読んだのは「不動カリンは一切動ぜず」であり、仮に本作の濃度を10としたら不動カリンは50くらいはある。当社比5倍だ。何が言いたいかというと、作風の広さに強い関心を抱いた。


大学生活を充実させようにもチャラいサークルには手を伸ばすことが出来ず、気づけば何の活動をしているか分からないような、謎サークルに入った主人公の話。私はなんでもわかるのですよ、と微笑むヒロインたる会長が、とても神々しい出だしで始まる。各キャラ達が、等身大の大学生像を類型的に示している点から、何かメタいものを想起しながら読んでいたが、とてもすっきりとした読後感を得ることが出来た。

一般的な大学生ってこういう感じなんじゃないのかな、という森田氏の想像力が働いているであろう本文からは、自分自身共感を得るものがいくつもあった。よく見ると著者と自分の年齢が一致しているので、これは世代的な感覚なのかもしれない。


物語後半でモラトリアムの延長について説かれている点は、現代大学生における決断主義を想像させる。
退くも地獄、進むも地獄、止まるも地獄、の日本経済特有の辛さがまろやかに表現されていると言ってよいだろう。ようするに就職するかしないかという話だ。
自分としてはヒモ島先輩の結論にいたく共感している次第であり、リスクヘッジという言葉を安易に使う大人になってしまったと反省するばかりである。


ところで最近、ライトノベルの水戸黄門化が進んでいるのではないか、という話を会社の喫煙所内でした。
その幻想をぶち壊す左手の紋所が世には溢れているようで、日本人はもしかしたら叱られることに飢えているのかもしれない。松岡修造氏のようなリーダーが求められる熱い時代が再来しているのかもしれないと考えると、他人事だけど勘弁してほしいものがある。かしこ。

素晴らしきドッペルゲンガー ~不連続性存在~

ドッペルゲンガーの恋人 (星海社FICTIONS)

ドッペルゲンガーの恋人 (星海社FICTIONS)

長らく積んでいた作品を今更になって手に取ったのは、著者の唐辺葉介氏が瀬戸口廉也氏の別名義であることを知ったことからだ。これこそ今更の話で、自身のアンテナの低さに辟易とする次第なのだけれど、SWANSONGで受けた衝撃を忘れない程度には、まだ耄碌していないらしい。


死んだ恋人をクローン技術によって「転生」させることで、主人公と恋人はもう一度二人で人生の続きを歩みはじめる。
こう書くと、なんだ綺麗なラブロマンスじゃないかと思う人がいるだろう。またその一方で、この手の作品を読み慣れている人は倫理的・道徳的な問題に突き当たり、それに翻弄されながらも強く生きていくようなストーリーラインを思い浮かべるかもしれない。大雑把に語るならば後者により近い位置にいる作品ではあるのだけど、このドッペルゲンガーの恋人はもう少し深い所、「魂の在り方」について問い掛けていることが強く印象が残った。

「転生」とカギ括弧でわざわざ修飾したとおり、いくら知識や経験や記憶が受け継がれても「蘇生」ではないことが物語の大きなポイントになる。
死んだという事実がある以上、誰がなんと言おうと別の人間でしかない。そう自身を捉えるヒロインに対して主人公は、記憶と経験が受け継がれたのならそれは本人以外の何物でもないと強く主張する。このお互いの食い違いをドラマ性がさして感じられない100ページ超で語られることに、作者の強い意思を感じた。その意思は確かに後半にかけて物語として現れてくるわけだが、もっと深い何かを語ろうとしているのではないかと。

最後まで読むとそれがストンと胸に落ちてきた。amazonのレビューでは「オチが弱い」や「ゾッとする」などと書かれているが本質はそこではないように思える。人とは何か、魂とは何か、命とは何かをひたすらに読者に問いかけ続け、あげくの果てには、ほらあとはお前が考えろよ、と作品を投げ放しているように見えるのは多分自分だけではないはずだ。
いくら記憶や経験が継続していようが、そこに連続性が欠けているのならばそれは同じ人と言えるのかどうか。主人公は皮肉なことにそれを冒頭で示唆しており、にもかかわらず愛というテーマを隠れ蓑にして最後の最後までマッドサイエンティストを貫いていた。ただし、その狂気さである連続性は違う形で崩壊しているのだけど、これ以上はどうしてもネタバレになってしまう。


悲劇の恋愛にも見えるし、喜劇の恋愛にも見える、もしかしたら真の恋愛に見える人もいるだろう。多分その捉え方の違いによって、この作品に対しての後味は大きく変わるはずだ。ただ自分はむしろ、もう少し達観とした哲学めいたことを考えてしまった。つまり「不連続な存在」を題材とした魂の在り処についてである。


だいぶ話が遠回りしてしまったが、素晴らしき日々に繋がる。多分、きっと、この作品には「音無彩名」がいたのだろう。
確かに自分はそう思ったし、投げっぱなされたことの気持ち悪さもこれで解消できるはずである。

素晴らしき日々 ~不連続存在~ 通常版

素晴らしき日々 ~不連続存在~ 通常版

アイデアの発想はエロゲ会社から学べ

■エロゲ『ネトワクネトラル カレマチカノジョ』がリアルに「君の○○なら今俺の隣で寝てるよ」が味わえる究極オンラインNTRゲーな件

http://asitagamienai.blog118.fc2.com/blog-entry-1650.html

 

もはやteatimeさんなら何をやっても驚かないと思っていたのに、NTRにソーシャル性をもたせたゲームを作るとか、その発想はなかった。

ラブデス555ではオンラインTPSを実現させ、アダルトゲームの遙か遠い地平線を目指し続けるその先には、果たして何が待ち受けているのか。それはまだ誰も知らない。きっとそのうち、R18ライクなセカンドライフ空間を作り上げて、リアル「夏の区界」を荒みきった日本に現出させてくれるに違いない。

ひとまずこの発想は、みなさんのラブ●ラスにアップデートとして反映されますゆえ、カノジョの同行にはくれぐれもご注意くださいませ。現実から逃避しようとしているにも関わらず、横から掠め取られていくという屈辱を味わえるなんて、エクストリームリア充を擬似体験出来る素晴らしい学習ツールです。

 

閑話休題。ラブデス555の時にも「この発想はどこから湧いてくるんだ」と結構真剣に、ネットワークの可能性に対する着眼点として尊敬を覚えた。ソーシャルゲームの発想でいうと「怪盗ロワイヤル」が思い浮かぶのだけど、これをNTRに変換出来る発想はそうそう出て来ないだろう。

 仕組みとコンテンツの話をごっちゃにしてしまうが、TMAのパロAVの発想にも近いものを感じる。著作権的な問題が真っ黒な状態であることを置いておけば、AVの様式美を崩して新しいコンテンツを作り上げる発想は見事だ。やはり新しい発想はイリーガルで未熟な場所から産まれてくるものだと実感する。(しつこいが、コンテンツの正当性を認めているわけではない)

 

インターネット空間のモラルがまだ未熟だった頃にも、似た匂いをしたコンテンツ・サービスは大量に溢れていた。今のように一定の発達を遂げた場所からはイノベーションが生まれにくい。それはきっとアイデアの枯渇であり、ユーザーの定着・執着によるものだと思う。自分の観測範囲内におけるオタクコンテンツとWEBサービスに関しては、便利さ・快適さが常に充足しているように思えるし、表現の限界に近づきつつあるのだろう。

新しいアイデアは既存のアイデアの組み合わせだ、というのは真理だが、それもまた現在ではキメラになってしまう確率の方が高いように思えるのだ。

 

iPhoneの人気や、モバイルソーシャルゲーのムーブメントを見ると、こういった現状では、やはり根本の部分を変えるしかないように思え、これからはまたハードが重要になるのではと考える機会が多い。それはデバイス的な変化かもしれないし、FLASHからHTML5への大移行を指すのかもしれない。ソフトウェア的なアイデアの掛け算がうまくいかないのであれば、ハードをその数式に入れ込み、回答のパターンを増やすのが必要なのだろう。

 

teatimeさんの発想からは学ぶものが多い。技術の発展はエロからとはよく言ったものだと思う。かしこ。